Friday, April 16, 2010

難病・多発性筋炎の妻介護40年の手記

全身の筋肉が次第に動かなくなる難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の患者や家族を支援する日本ALS協会県支部に対し、郡山市富久山町の野地力さん(82)が、2005年7月に亡くなった妻の好子さん(当時75歳)の介護体験記を送った。
 体中の筋力が低下する難病「多発性筋炎」を患った妻を約40年介護してきた経験をつづったもので、同支部の活動を取り上げた3月の本紙県版連載記事を読んだのがきっかけ。力さんは「介護で苦労している人たちの参考になれば」と話している。
 好子さんが発病したのは1964年秋。実家の福島市から郡山市の自宅に向かう電車内で突然倒れ、起きあがれなくなった。すぐに病院に運ばれたが、病名は不明。意識ははっきりとして会話も出来たが、全身がしびれ、寝たきりの生活を余儀なくされた。
 入院から1年後に退院し、力さんと息子2人による介護生活が始まった。好子さんは我慢強い性格だったが、病気のストレスから徐々に力さんに不満をぶつけるようになった。食べ物をうまくのみ込めず、食事はすべてミキサーにかけてどろどろにした幼児食を用意。それを「もっとおいしいものが食べたい」と文句を言った。夜中は腕と腕をひもで結び、トイレやマッサージに対応できるようにした。睡眠時間がほとんど取れない毎日が続いた。
 病名が多発性筋炎と判明したのは、発症から20年近くが過ぎてから。根本的な治療法は確立していない病気だった。回復の兆しのない妻を見るのはつらく、「いっそ心中してしまおう」と、4度考えたという。
 そんな力さんを踏みとどまらせたのは息子たちの存在だった。発症当時、長男は中学2年、次男は小学4年。工場勤務の力さんが家を留守にする際には、介護や家事を進んでこなしてくれた。勉強する時間が十分取れたわけではなかったが、2人とも大学の建築科に進み、「母親の介護の経験を生かしたい」と障害者用のトイレなどの設計に取り組んだ。
 同じように難病と闘う患者や家族も心の支えになった。通院していた郡山市の病院の待合室で出会った人に愚痴をこぼしたり、手当の申請方法を教えあったり。近所や親類に打ち明けていない悩みも不思議と話すことができた。
 05年夏に好子さんは「気分が悪い」と訴えて病院に運ばれ、集中治療室に入った。それから会話もできないまま1か月後に亡くなった。しかし、「やるだけのことはやれたと思う。けんかも多かったけど、後悔はしていない」。
 県内でALS患者を介護する家族の1人は、体験記の送付を聞き、「参考にしたい。実際に会って話を聞けたら」と興味を示す。力さんは「難病は介護する家族もつらい。そのことを理解する人たちが病名に関係なく協力し合える態勢ができることを期待したい」と話している。(船越翔)(読売)

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